日曜日, 5月 18, 2014

『花火思想』限定上映と、岡林信康の私達の望むものはについて。






『花火思想』最初に知ったのはTwitterだったか・・宣伝に一生懸命な感じでそれで単館公開する夜に溢れたミニシアター映画の1つかなとなんとなく頭に残ってて、いつだったか渋谷を歩いてた時にこのチラシを配っててもらってたんだけど、実はこの映画2週間限定公開で、しばらく関東じゃもう見る機会がないがもう後の祭り。しかもしかも、見た人の感想が流れてきたら岡林信康の「私達の望むものは」使われてるなんて知った暁にゃ・・もう、Arcade FireのWake Up並みの必殺ソング、というより、自分の人生の中でこの曲ほど狂わされた曲はないくらいなので本当に見に行かなかったのを後悔してた。


今は関西地方を回っているとのことで、この映画のことは少し忘れていた時に、一日だけ東京でも上映するという情報が。でも直前までそこまで気持ちが乗っていなかったが、ツイートで、この映画がDVD化することがないだなんて事が流れてきて、これはもう行かなきゃ「サウダーヂ」の二の舞いになりかねねえと、本当は両親と会う約束をしてたのを取りやめて、慌てて出かける準備をして家を出て東中野へ。(チケット取れなかったらどうしようと焦ったためか、早く着き過ぎた)


◯映画の感想。

わかりやすい焦燥感だとか高揚感だとか、青春の突っ走るような躍動感だとかは、ある一点(はっきりいっちゃえばご贔屓の岡林が流れてのラストシーン)以外は実は希薄で、どちらかといえば冷めつつそれなりの愛想はもってしまっている主人公に、ずるずると引きずられるような映画でもあるし、初監督での低予算作品らしい、色々な粗さがめだつのだけれど・・所々のほっとする(ホームレスの堀田と始めてあう銭湯の湯船で吸うタバコのシーンだとか、川辺でしゃがんで才能の話をするシーンだとか)ところがよかったりしたした。

映画が終わった後に、監督らのトークイベントがあり、観客との質疑応答もあった。それらを大雑把にまとめた。

「ロックの定義とは」という質問に、監督曰く「ロックとは、下手でもやり続けることのこと。成功とは、やり続けた結果他人が評価されて出てくること。才能は存在しない。

2本目に上映した「へばの」のラストシーンについて>主人公が撃ち殺されるのも、元々は別の筋が通った脚本があったのだが、そのシーンはカットしたために、半ば抽象的なシーンのようになった。それは撮影中にヒロインの女性の人間感をみて、脚本にそごを感じたから。

両者とも、制作途中で元々のものに違和感を感じて、意図したところとは違うことを試した結果、より成熟したものとなったとのことだった。


音楽は自分で創造することじゃなく、ある種のジャーナニズム的な、何か降りてくるものを掴む作業だと聞いたことがあり自分もそう思っているが、映画においてもそういうことが起こったのかもしれない。(と思ってたら買ったパンフレットでも似たような発言をされてた)


◯岡林信康「私達の望むものは」と、映画のなかの「殺す」ことについて。

私達の望むものは
岡林信康 作詞/作曲

私達の望むものは 生きる苦しみではなく 
私達の望むものは 生きる喜びなのだ 
私達の望むものは 社会のための私ではなく
私達の望むものは 私達のための社会なのだ
私達の望むものは 与えられるではなく
私達の望むものは 奪い取ることなのだ 
私達の望むものは あなたを殺すことではなく 
私達の望むものは あなたと生きることなのだ 
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ
私達の望むものは くりかえすことではなく
私達の望むものは たえず変わってゆくことなのだ
私達の望むものは 決して私達ではなく
私達の望むものは 私でありつづけることなのだ
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ
私達の望むものは 生きる喜びではなく 
私達の望むものは 生きる苦しみなのだ 
私達の望むものは あなたと生きることではなく 
私達の望むものは あなたを殺すことなのだ 
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ
私達の望むものは
私達の望むものは.....


この曲は上の歌詞をみれば分かるように、最初と最後で言ってることが反転している。
僕なんかも昔、岡林信康に熱を上げ、彼の曲を路上でがなり歌った事もあって、
この曲の最後はこの反転にならって

今ある幸せに とどまってはならない
まだ見ぬ不幸に 今飛び立つのだ

だなんて歌ったりもした。

この曲はいくつかヴァージョンががあるが、元のは二枚目のアルバム「見るまえに跳べ」に収録されてるやつだと思う。序盤は弾き語り調なんだけど、だんだんと畳み掛けるようになって、最後は歌詞の転換と一緒に銃声とともにぐわあっとがなり立てるカタルシスのある曲。

他には主に、日比谷野音での「狂い咲き」コンサートでの演奏と、はっぴいえんどをバックにつけた諸演奏。

狂い咲きのでは後半部分で歌い方がああ〜あ〜と叫び声と一緒にキートーンも変えて歌う。はっぴいえんどのは半ばハードロックというかパンクのように崩れて荒々しい演奏してるのが多くて、映画のもその中のひとつが使われた(バックと歌がずれてたりもしばしばのやつ)

そして「花火思想」でも、よく「殺す」というのをモチーフとして使われた。それが単純な殺人ということじゃなくて、社会の歯車になっていることや、自分のやりたい事ができない自分のことや、なんやは映画をみるなりそれぞれが思うことなんだろうけど、そういう象徴みたいなもの。

で、この歌の「殺す」ということも、単純な学生運動という社会性のものではないのは、恐らく歌を発表した当時でさえそうなんだと思う。

僕が一番好きなライブ盤は実は、社会からしばらく引っ込んでライブを休止してた後に出した「1973 Pm9:00→1974 AM3:00」ってライブ盤にもなったライブ。歌はフォーク性メッセージ性のある曲を封印して、ディランに影響をうけた3,4枚目の曲ばかりを(気がついたら洗練してる)はっぴいえんどをバックに歌って、最後にラップ調のファンクな「ホビット」を歌って終わるんだけど、その時のアンコールへの客からのあおりで「私達の望むものは やれよおらああ」みたいな叫びが随所から・・そこからまた出てきた岡林信康が歌うのが、ヒョロヒョロの日本語の「アイ・シャル・ビー・リリースト」(ザ・バンドで有名)それが、ほんとまた最高なんだけど長くなるのでとりあえず・・。

監督には、上記のことを踏まえた上で「私達の望むものは」を作品の繋がりや、「殺す」のモチーフについての関連を、しだらみだらになりつつ聞いてみた。

監督は「撮影中は岡林信康の曲を使うことは考えていなかった。元々70年代の音楽がふたりとも好きで、それで偶然映画を作った後に知って使った。元々は静かな曲だが、はっぴいえんどとやった荒々しいライブ音源が、劇にぴったしだと思ってつかった。映画では元々過去の回想シーンだったが全然面白くなかった。


京都で岡林さんに会う機会があり、その時、この曲は演奏としては底辺だが、君達の映画も技術は似ているんだろうし、そのままで転がれ、というような事を言われた。

みたいな解答を頂いた(うろ覚えなので間違ってるかもしれません)。







そういえばこの曲は「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」でも使われたんだっけ。

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